動じない心はやめろ!

動じない心はやめろ!

ふとコンビニに立ち寄ったら、『動じない心』というテーマの本が450万部も売れてるベストセラーだ、というふうに紹介されていた。

俺自身も特に20代前半とか、”冷静沈着”になんでもできる姿をスマートだと憧れて、動じない心を手に入れるべく目指したことがある。

俺の場合もともと、あまり感情を表に出さない、ポーカーフェイスには自信があるたちだったので、見た目を取り繕うことはかなり余裕でできた。

ただ、やっぱり内心テンパってる時なんかは自分はまだまだだな、と思って意識を平静に保とうと努力してきた。

しかし俺が最終的にたどり着いた結論は、”感情は感じるべき!”

動じない心とは、感情を殺して生きているのと変わらない。

ビックリした時に動揺しないのは、熱湯に触れても平然とした顔をしているのと変わらない。

それが果たして生き物のすることだろうか。

という疑念すら抱くが、動じない心を目指すと単純に人生から幸福感が消える。

不幸せになると言って過言ではない。

感情の起伏をなくすとはそういうことだ。

だって、緊張した時に緊張を押し殺すことを目指せば必然的に、嬉しいことが起きた時にも必要以上に舞い上がる自分を押し殺すようになる。

浮かれてはダメだ!

勝って兜の緒をしめるかの如く、浮かれそうな時こそ気を引き締めろ!

なんて自制するようになるわけである。

嬉しいことが起きた時にそれを満喫できない人生が、果たして幸せであろうか?

俺が人生を探求してたどり着いた答えは、感情はすべからく全て、感じるためのものである。

喜びを味わうなら当然、悲しみも味わう必要がある。

特に現代人の男は涙は恥なんて風潮があり、親の死に目に涙さえ流れなかった、なんていう人も多い。

悲しいときは泣いていいのだ。

それこそが人間であり、生きている証だと言える。

どこまでも人間らしくあった方が、結局のところ人望も集まるし、何より自分自身の人生の充実感が違う。

冷静な人間の方が、組織をより良い方向に間違うことなく導くことができると思ってそれを目指すのかもしれないが、自分の感情を殺すような人は他人の感情などもっと無下に扱う。

人の温かみのない決断は、確かに結果だけを重視するなら組織さえも良い方向に導くのかもしれない。

しかし、結局のところ人は人間味のある人にしか付いてこない。

世でカリスマ性を発揮している人はみな、人間味に溢れている。

冷徹な人間がカリスマ性を発揮し続けることなどないはずだ。

カリスマ性といえば、その最たる例としてヒトラーが上ると思う。

だが彼が絶大な支持を得たのは、国民の感情をよく理解してそれを戦争にすら駆り立てる鼓舞をすることができたからだ。

名演説家として有名であるように、その演説は人々の心を刺激する、とても生命力に溢れたスピーチだった。

その結果は、正しいかどうかでいえば間違った道へ進んでしまったと思う。

だが、究極的にいえば間違いを犯すこともまた、人間である証だ。

動じない心を目指す人は結局のところ、”間違う”ことを何より恐れていないだろうか。

いつも冷静でいられれば、決断の時にも間違わないはずだ。

そんな”恐れ”に囚われていないだろうか。

間違いを恐れて人であろうとすることを避けるほどに、不幸にしかならないと思ってほしい。

泣きたい時に泣いて笑いたい時に笑える人生の方が、絶対に充実している。

俺自身、そうだった。

動じない心を目指すほどに生きてる感覚が失われて、いっとき全然笑えないようになってしまった。

その時たまたま、友人にとても直情的で本能のままに生きてるような友人がいて、彼がとても眩しく見えた。

そのおかげで、もう一度人の心を取り戻すことができたわけだが、そういう自分の変遷を振り返っても、動じない心を目指すことにいいことなんかない、という結論だ。

リーダーとしても、一人の人間としても、”ありのまま”でいられる人の方が最終的に強い。

感情を感じることは悪いことではないのだということを、もう一度意識してもらいたい。

お坊さん以外、悟りの道を極める必要などない。